認知症は24時間365日、なにが起こるかわからないということを認識しなければいけない

(亀山)今回の世界一やさしいレストランという取り組みは障害がある方を中心として行わせていただいているんですけど、障害があっても認知症があっても、社会に出て行くには同じバリアが存在する。

たとえば、私が診察に伺うお家では、おじいちゃんが認知症になられたおばあちゃんを頑張ってみていますが、そのおばあちゃんは徘徊で何度も保護されています。

おじいちゃんも疲れ果てちゃって結局施設に入れるという話になって、もうちょっと何かができたら家にいさせてあげられたのかなと思うんです。

そういう徘徊の問題がある方をどうやったら家で過ごさせてあげられるのか。

なにかヒントはありますか?

(和田)極の方から言いますね。

みなさんが「何があっても良い」って思ったらOKです。

僕もみなさんも、自分という人間が24時間365日、「脳によって支えられている」ということはイメージしにくいし、あまりそんなことは感じたことがないと思うんです。

今日ここへたどり着けたこと、隣の人を知ってるか知らないかがわかること、喉が渇いたなと思って水を飲むこと。

これらは全部、脳によって支えられているんですね。

この“脳に病気が起こる”のが、認知症。

ということはつまり、24時間365日いつどこで何が起こるかわからない状態になるということなんです。

いつどこで何が起こってもしょうがないっていう覚悟を決めない限りは、できるだけ何も起こらないところに入れようとする。

だから、施設に入る、という話になる。

まずはここが極かなと思いますね。

世界一やさしいレストランの看板

自宅で面倒をみられないから施設へ預ける。これで大丈夫かっていったらそうではない

それから、「認知症の方=歩き回る方」ではないので、認知症の方でも歩かれる方もいれば、歩かれない方もいらっしゃる。

歩かれる方と歩かれない方はすごく大きく違っています。

認知症があって歩かれない方と、認知症があってよく歩かれる方に対して、同じように僕が「ここにいてくださいね、1時間後に戻ってきますからね」と言ったとします。

同じ認知症がある方なんですけど、歩けない方は明日もいますね?1週間後もいますね?

一方で歩ける方は、僕の姿が見えなくなった途端に「あれ、私、何でここにいるのかしら」って思ったり、あるいは「眼の前にいた人はどこへ行ったのかな?」と思ったりします。

次の行動に移す機会が訪れますから、そこからいなくなってもおかしくないわけですよ。

こういうように、同じ認知症でも「どういう状態にあるか」で大きく違いが出る。

同じ歩ける認知症の人でも、歩けるからといって歩き回るとも限らないんですね。

特に僕が思うには、日本の方はよく動かれる。

だから認知症の状態になっても“動かれる”っていうことはすごく残る。

おそらくヨーロッパなんかと比べて、歩き回って困る割合っていうのはヨーロッパよりも日本の方が大きいんじゃないかなと思うんです。

和田行男氏の講演を聞く観客

“公的な仕組み”だけで、いつどこで何が起こるかわからない状態を支えることは無理

いずれにしても、いつどこで何が起こるかわからない状態に対して24時間365日支えていく仕組みは、“公的”には無理です。

「“私的”には家族が担うしかない」となっていくわけですから破綻しやすくなる。

自宅では自分がずっと面倒をみられない、じゃあ施設に預けたら大丈夫かといったらそうではない。

みなさんご存知かどうかわかりませんけれども、夜間の職員の配置数は昼間よりもぐっと下がりますし、昼間も入居者の数に対して6~7人に1人くらいしかいません。

一番多いところでも施設の基準で言うとグループホームでは9人に2~3人ですから、やっぱり充分なことはできないということになるわけですね。

だからやっぱり最後はもう「何が起こってもしょうがないな」って思えない限りは、難しいかな、って僕は思っているんです。