リハビリは”リハビリのため”にするんじゃない

「リハビリテーション」という言葉がすごく間違われた使い方をしていると思うんです。

ある理学療法士たちの勉強会に行ったとき、一番前に座っていたPTに「骨折したらどうする?」って聞いたんですよ。

「病院に行きます」
「そうか」「病院に行くのはなんでや?」
「治したいからです」
「治したいのはなんでや?」
「もとのように歩きたいからです」
「もとのように歩きたいのはなんでや?」
「もとのような暮らしがしたいからです」
「そうだよな」「それを何て言うんや?あなた方の学問では」
「リハビリテーションです」
「だよな」
だったら 、「病院であなた方は“リハビリテーションのためにリハビリテーションしてる”のか?」 って聞いたんですよ。

「おかしくないか?リハビリとかリハビリするとか言うけど何のため?」って聞いたら「リハビリテーションのためだ」って言うんですよ。

それはおかしい。

僕はリハビリテーションの考え方をダメにしているのは、一番は療法士だと思ってるんです。

本来、療法っていうのは、もともとの暮らしの姿を十二分に取り戻せるわけじゃなくても、そこをちゃんと念頭においてなあかんと思うんですね。

例えば僕がデイサービスにいる頃、そこに理学療法士が来てたんですけども、「お前な、こんな爺さんの関節可動域の訓練してるけど見込みあんのか?」って聞いたんですけど、「いや、見込みはない」と。

じゃあなんのためにやってんだと。

右手の回復見込みがそうないような可動域訓練に毎週2回来てなにやってんだ。

ここが僕はものすごくミステイクになっているかなと思うんです。

福祉とは、人々が幸福に暮らす生活環境。介護職とは、その生活環境を整える職人

本来、介護保険事業は眼鏡のようなもの。

そもそもの目を治すものじゃなくて、悪い目に合わせた自助具を使うことで、それまでと変わらないような暮らしをする。

それが眼鏡の仕事です。

僕らの仕事も同じ。

そういう意味では、介護職っていうのは「リハビリテーション師」なんですね。

理学療法士ではない、作業療法士でもない、リハビリテーション“師”です。

介護保険事業の目的は「尊厳が保持され有する能力に応じ自立した生活を営むことができるようにする」で、僕ら介護職はその目的を遂行していく者、っていうことになるわけですね。

片方で、福祉とは「人々が幸福に暮らす生活環境」です。

だから、福祉の仕事をしているってことは、僕らは“人々が幸福に暮らす生活環境を整える職人”っていうことになるわけで、もう一回ここを考えていかなければいけないんじゃないかなって僕はすごく思ってるんですね。